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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)―姥桜
(Lafcadio Hearn or Koizumi Yakumo, a naturalized novelist
and his work "Ubazakura(nurse cherry")
大宝寺(真言宗豊山派)は、701年(大宝元年)の創立という。
現存する本堂(国宝)は、形式手法から平安時代末期の建設と推定されている。
境内には、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)著「怪談(Kwaidan)」に納められた「姥桜」の桜樹がある。
姥桜の傍の立札に、次の説明がある。
昔、ある長者が子どもに恵まれず、松山の西山のふもと、大宝寺のお薬師様に願かけをした。願いがかなって、
女の子が生まれ、、露と名づけた。大事に育ててきた乳母のお乳が急に出なくなったが、お薬師様のおかげで
なおり、そのお礼に長者はお堂を建てた。それが大宝寺の本堂だという。
お露は美しい娘に成長したが、十五歳のとき病にかかった。乳母は、わが命にかえてもお嬢様をお助けくださ
いと、お薬師様においのりした。お露は元気になったが、そのお祝いの席で、乳母は倒れ床についた。乳母は
お薬師様との約束ですといって、薬も口にせず、「お薬師様に、お礼として桜の木を植えて下さい」と言い残し
て死んでしまった。
長者は、乳母のことば通り、桜を本堂の前に植えた。
不思議なことに、桜は枝なしに幹から二、三輪花が咲いた。その花の色は、母乳のような色で、花はまるで乳
母の乳房のようであったという。
大宝寺の本堂(国宝)(松山市南江戸五丁目)―1994-8-5
本堂の右手前にあるのが、姥桜である。 
本堂には、厨子及び棟札(国宝)、阿弥陀如来坐像2体、釈迦如来坐像(いずれも重要文化財)がある。
―最寄駅:伊予鉄道バス10系統・朝日八幡
種田山頭火―一草庵(Taneda Santoka―wandering, free-style haiku poet
and his dwelling Issoan)

種田山頭火(たねださんとうか)は、1882年に、山口県防府の大地主の長男として生また。
しかし、山頭火は、酒に溺れ、財産を食いつぶし、破産した。彼は熊本に落ち延びたが、酒乱は止まない。
遂に1926年には、寺にあずけられる身となった。そこで出家し、妻子に断り無しに、托鉢行脚の旅に出た。
その後は、行乞から得られる米や喜捨銭、友からの援助などに支えられながら、各地を旅した後、小郡の
其中庵、湯田の風来居と移り住み、1939年12月に松山の一草庵に移住した。そして、1940年10月に、一草
庵で死去した。享年58歳。
彼の俳句は、自由律に属し、季語や字数にとらわれない特徴がある。

一草庵(種田山頭火の終焉の地)(松山市御幸)―2003-3-21
敷地内の石碑には、「鉄鉢の中にも霰」の句がある。
―最寄駅:伊予鉄道城北線・赤十字病院前
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個人記録
1946- 4 1946- 10 上浮穴郡父二峰村に居住
1947- 8 1955- 3 松山市に居住
愛媛県各地の風景に進む
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愛媛県内では、次の市町村に行きました。

愛媛県の風景―松山市の風景
Sceneries of Matsuyama City in Ehime Prefecture

松山市     温泉郡重信町     上浮穴郡久万町     新居浜市    八幡浜市   
北条市     温泉郡川内町     上浮穴郡面河村     西条市     宇和島市   
伊予市     温泉郡中島町     上浮穴郡美川村     東予市     東宇和郡宇和町    
大洲市     伊予郡松前町     上浮穴郡小田町     今治市     南宇和郡城辺町    
伊予郡砥部町     喜多郡長浜町    周桑郡小松町     南宇和郡西海町    
伊予郡双海町     喜多郡内子町     周桑郡丹原町    
越智郡大三島町   
660年、朝鮮半島の百済は、唐・新羅連合軍の攻撃により滅亡した。
しかし、百済遺臣の救援要請を受けて、斉明天皇は朝鮮出兵を決定、その軍勢は、661年初頭に、難波津を
出港、伊予国熟田津(にぎたづ)に上陸し、石湯行宮(
いわゆかりみや)に暫く逗留した。
同行者に,中大兄皇子,大海人皇子,大田皇女,額田王(
ぬかたのおおきみ),中臣鎌足等がいた。
熟田津を出港する時に、額田王が詠んだ次の歌は、よく知られている。
  熟田津尓  船乗世武登  月待者  潮毛可奈比沼 今者許芸出菜
 (にぎたづに 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな)(万葉集第一巻)
いざ、出港! という昂揚した気分が、よく表れている歌である。
しかし、この歌と共に進発した伊予水軍は、663年の朝鮮・白村江(
はくすきのえ)の戦で、唐・新羅連合軍に
大敗を喫し、熟田津に戻る事は無かった。
額田王―熟田津
(Nukata-no-Okimi, an ancient poet and the harbour of Nigitadzu)
熟田津歌碑(愛媛県護国神社・万葉の庭)(松山市御幸)―1990-5-21
額田王の次の歌が、刻まれている。
 熟田津尓  船乗世武登  月待者  潮毛可奈比沼 今者許芸出菜
熟田津の位置については、諸説があり、確定していない。
候補地としては、松山市内の古三津、和気、堀江などが、挙げられている。
―最寄駅:伊予鉄道城北線・赤十字病院前
一遍上人―宝厳寺(Ippen, the founder of Ji-sect of Buddhism
and his birthplace, Hogonji Temple)

夏目漱石―道後温泉(Natsume Soseki, a famous novelist and the Hot Spring of Dogo)

四国遍路の創始者・衛門三郎―石手寺
(Emon Saburo, the founder of Shikoku Pilgrimage and Ishiteji Temple)
熊野(ゆや)山石手寺(真言宗)は、四国八十八個所第51番札所である。
寺は、728年、聖武天皇の勅願により建立された。当初は安養寺と称したが、後に石手寺と改められた。
寺号改称については、次のような伝説がある。
昔、伊予国・浮穴郡荏原の里(現在は松山市)に、衛門三郎という大変欲深い長者がいた。ある日、弘法大師
が門前に立った時、衛門三郎は、托鉢を取り上げて、投げすててしまった。 所が、その後、長者の8人の子
供が次々に死んで行った。衛門三郎は、恐ろしくなり、自分の非道を悟って、家を捨て、弘法大師に会う四
国巡拝に旅立った。 だが、伊予国、讃岐国、阿波国と回っても、弘法大師に会えない。そして、831年、阿
波国・焼山寺で病に倒れてしまった。余命幾ばくもなくなった時、弘法大師が枕元に現れ、彼の手に「衛門
三郎再来」と書いた小石を握らせた。衛門三郎は安心して息を引きとった。

892年に、 領主・河野伊予守息利(やすとし)に、長子息方(やすかた)が生まれたが、左手が開かなかった。
そこで、安養寺に祈願したところ、左手が開いた。中には、「衛門三郎再来」と書かれた小石があった。
この事により、寺号が、石手寺と改められた。その小石は、今も、寺宝となっている。
現在の建物は、主として鎌倉時代の建設である。 楼門(国宝)、本堂、三重塔、鐘楼、護摩堂、五輪塔(以上
いずれも重要文化財)など、数多くの文化財がある。伊予を代表する古刹である。
石手寺楼門(国宝)(松山市石手)―1994-2-4
内側から撮影。
この門は、1318年の建設である。
間口7.25m、奥行4mの、重層屋根入母屋造り、本瓦葺である。
境内で、御札焼きが行われている。
―最寄駅:伊予鉄道バス8系統・石手寺前
石手寺御詠歌

西方を よそとは見まじ
安養の 寺にまいりて
    受くる十楽
一遍上人(1239〜1289)は、伊予/石井郷の地頭・河野通広の3男として、この地に生まれた。
彼は、仏門に入り、はじめは、浄土宗の教理を極めたが、諸国へ修業と衆生済度の旅を続けた結果、浄土宗
とは別に念仏「南無阿弥陀仏」をもっぱらとする、時宗の基礎を確立した。
宝厳寺は、664年、 天智天皇の詔に基づき、国司・乎智(おち)宿祢守興が建立したという。当初は、天台宗
であった。
宝厳寺は後に荒廃したが、一遍の死後の1292年、時宗の寺として再興された。
寺宝として、一遍上人木像(1475年作、重要文化財)がある。
この寺に上る坂の両側は、かつては、松ヶ枝町遊郭であった。
松山を舞台にした、夏目漱石の小説 「坊ちゃん」 には、次の描写がある。
「おれの這入った団子屋は遊郭の入口にあって、大変うまいと云ふ評判だから、温泉に行った帰りがけに一寸
食って見た。 誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へ這入ると団子二皿七銭と書いて
ある。実際おれは二皿食って七銭払った。 どうも厄介な奴等だ。二時間目にも吃度何かあると思ふと遊郭の
団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。」
1958年の売春禁止法施行による遊郭閉鎖後は、 一遍上人に因んで、通称「上人町」となった。但し、今でも歓
楽街で、「ネオン坂」とも呼ばれる。
宝厳寺山門(松山市道後湯月町)―2003-3-21
バーやスナックが並ぶ「ネオン坂」を上ると、宝厳寺に至る。
山門の内側に本堂の屋根が見える。
境内は、愛媛県指定史跡である。
本堂の前に一遍上人歌碑があり、次のように刻まれている。
 旅衣木乃祢可やのねい従具干閑
 身能すてら礼ぬところあるへ幾
 (たびごろも    きのねかやのね いずくにか
  みのすてられぬ ところあるべき)
境内には、この他、川田 順「一遍上人顕彰碑」や正岡子規
句碑(色里や 十歩はなれて 秋の風)などがある。 
―最寄駅:伊予鉄道城南線・道後温泉
河野通盛―湯築城(Kono Michimori, the builder of Yudzuki Castle)

一遍上人が出た河野氏は、平安時代末期に興った伊予国の豪族である。
1281年の元寇の時には、河野通有の水軍が、蒙古軍を苦しめた事が知られている。
1340年頃、河野通盛は、道後温泉の傍の丘に湯築城を築き、伊予国支配の本拠とした。
しかし、戦国時代の1585年、湯築城は、小早川隆景に攻められて落城し、河野氏は滅亡した。
湯築城は、小早川隆景、次いで、福島正則が一時居城したが、1588年に廃城となった。
現在も、当時の二重の堀が残っている。
敷地は、1888年に県立公園となり、1953年〜1988年の間は、一部が、県立動物園になっていた。
動物園が伊予郡砥部町に移転した後の跡地は、長らく放置されていたが、2001年から整備が始まり、
2002年春に、日本庭園や武家資料館などが完成した。
そして、2002-9-20、湯築城跡は、国指定史跡となった。

道後公園(湯築城跡=国指定史跡)(松山市道後公園)―2002-4-19
動物園の跡地に完成した日本庭園。
城館は右の丘の上にあった―最寄駅:伊予鉄道城南線・公園前
加藤嘉明―松山城(金亀城)
(Kato Yoshiakira, the builder of Matsuyama Castle or Golden Turtle Castle)

松山城は、標高132mの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二の丸、山麓に三の丸を置いた広大な規模を持っている。
姫路城、和歌山城と並ぶ、典型的な連立式平山城で、四国を代表する名城である。
松山城の創建者は、豊臣秀吉の武將、加藤嘉明(1563〜1631)である。彼は、1585年、賤ヶ岳七本槍の一人とし
て武勲をたて、更に、朝鮮侵略戦争の功により、正木城(現在は伊予郡松前町)10万石の城主になった。
1600年の関ヶ原役では、東軍につき、その戦功で、20万石に加増された。
正木城が手狭になったので、嘉明は、1602年に、道後平野の中枢にある勝山に築城を開始し、1603年に、新城
に移転した。この時に、勝山を、松山と改めた。当時の天守閣は、五層の偉觀を誇っていた、という。
1627年、加藤嘉明は、会津若松に転封された。
その後には、出羽上ノ山から蒲生忠知が入城したが、1634年、蒲生忠知は嗣子無しに没し、蒲生家が断絶した。
そこで、1635年、伊勢桑名の松平(久松)定行が松山15万石に封じられ、以後世襲して、明治維新に及んだ。
重要文化財として、天守閣、戸無門、隠門、隠門続櫓、乾櫓、乾門、乾門西塀、紫竹門、紫竹門西塀、野原櫓、
一の門、一の門東塀、一の門南櫓、二の門、三の門、三の門南櫓、三の門東塀、筋鉄門東塀、仕切門、仕切門
内塀が現存している。
また、復元建造物として、筒井門、筒井門東続塀、太鼓門、太鼓櫓、筋鉄門、内門、小天守閣、南隅櫓、多聞
櫓、十間廊下がある。

松山城天守閣(重要文化財)(松山市城山公園)―1990-8-11
当初の天守閣は、加藤嘉明築城の五層の建物だったが、1642年に松平定行が三層に改築した。
1784年に落雷で焼失した後は、長らく天守閣が無かったが、1854年に現在の天守閣が完成した。
江戸時代建設で現存する12天守閣では、最も新しい。軒の線が直線的であるのが特徴である。
―最寄駅:伊予鉄道城南線・大街道。徒歩5分で、登山口へ。
山麓の東雲登山口から山頂近くの長者平までは、ロープウェイ及びリフトの便がある。
正岡子規―子規堂(Masaoka Shiki―a famous haiku poet
and his birthplace)

正岡子規(1867〜1902)は、松山市新玉町の生まれである。
松山中学校を経て、大学予備門(後の一高)に入った。
丁度、この頃、アメリカからベースボールが伝えられた。彼は、この競技に熱中した。そして、自分の幼名、
升(のぼる)に基づいて、の・ぼーる→野・ボール→野・球→やきゅう、で「野球」という言葉を作った。
(2002年に、松山坊ちゃん球場最寄りの、JR予讃線・市坪駅の副駅名が、「の・ぼーる」となった。)
彼は、俳句では、俳壇の革新を叫び、旧派俳壇を驚かせた。
1892年に、日本新聞社の記者となり、1884〜1885年の日清戦争で、従軍記者を務めた。
1895年に、東京時代の学友、夏目漱石が、松山中学校の英語教師として赴任すると、一時期、漱石の下宿に同
居し、漱石の文学に影響を与えた。
再び上京後は、脊椎カリエスに冒された身ながら、日本新聞の俳句雑誌「ホトトギス」等によって、新派俳句を、
全国に普及させ、また、叙事文写生文を提唱して、当時の小説家に大きな影響を与えた。
1902年、東京根岸で没。墓は田端の大竜寺にある。

子規堂(愛媛県指定史跡)(松山市末広町・正宗禅寺内)―2003-3-21
子規が17歳まで住んでいた家が、正宗禅寺に保存されていたが、1945年7月26日の
米軍機空襲により、焼失した。この建物は、1946年に、復元されたものである。
正宗禅寺の境内には、正岡子規埋髪塔(愛媛県指定文化財)、子規と野球の碑、子規
句碑、高浜虚子句碑、坊っちゃん列車の客車がある。
尚、子規堂から南50m位に、興聖禅寺がある。この寺には、赤穂浪士・大高源五の
遺髪塔がある。(大高源五は、江戸・三田の松山藩/中屋敷で、切腹した。)
―最寄駅:伊予鉄道高浜線/横河原線/郡中線・松山市

道後温泉は、日本最古の温泉の一つである。伝説によると、一羽の鷺が傷を癒した事で発見されたという。
「伊予風土記逸文」に、大国主命が、重病に苦しむ少彦名命を、掌に乗せて温泉で温め、治した、との記事があ
る。この他、景行天皇、仲哀天皇、神功皇后来浴の伝説がある。また、聖徳太子、舒明天皇、斉明天皇、中大
兄皇子、大海人皇子、額田王なども入湯した。
国名「伊予(いよ)」は、湯(ゆ)の転訛である、という説がある。
701年の大宝律令で、伊予国府が現在の今治市桜井に置かれた。 都から見て、国府よりも遠い側を、「道後」と
称した事から、温泉の名が付いた、とされている。
道後温泉は、文豪・夏目漱石の小説「坊ちゃん」の舞台になった。
漱石は、1895年に、松山中学校の英語教師として、 松山に来た。彼の松山滞在は1年だったが、その時の体験
に基づいて、1906年に、小説「坊ちゃん」を著した。(小説の中では、道後温泉は「住田温泉」となっている。)
松山滞在中、漱石は、道後鉄道(後に伊予鉄道に合併)を利用して、温泉に通った。
「おれはこゝへ来てから、 毎日住田の温泉へ行く事に極めて居る。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ば
ないが温泉だけは立派なものだ。」(坊ちゃん)

道後温泉本館(重要文化財)(松山市道後湯之町)―2003-3-21
道後温泉は、かつては、内湯が無く、外湯だった。
この温泉本館は、木造3階建の大建築で、1894年の完成である。 2階及び3階は、上等客休憩用の
大広間になっている。屋上の振鷺閣では、今も、朝夕に、時の太鼓が打ち鳴らされる。
本館に隣接して皇族専用浴室の又新殿(ゆうしんでん)がある。
1895年に松山に来た夏目漱石は、小説「坊ちゃん」の中で、次のように記している。
「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、 流しをつけて八銭で済む。其上に女が天目へ茶を載
せて出す。おれはいつでも上等に這入った。」) 
これに因んで、3階に「坊ちゃんの間」が設けられている―最寄駅:伊予鉄道城南線・道後温泉

正岡子規と夏目漱石―愚陀仏庵
(Masaoka Shiki and Natsume Soseki and their lodgings "Gudabutsuan")

夏目漱石は、1895年4月に、松山中学校の英語教師として、赴任して来た。
最初に宿泊したのは、城戸屋旅館である。(小説「坊ちゃん」では、山城屋) 現在のビストロきどや(三番町四丁
目12番8号)がその跡地だという。漱石は、約一ヶ月、城戸屋に逗留した。
次いで、漱石は、小料理店「愛松亭」の2階に下宿した。それは、城山の中腹にあった。
(「町はずれの岡の中腹にある家で至極閑静だ。主人は骨董を売買するいか銀と云ふ男で…」(坊ちゃん))
後に、愛松亭は解体され、1922年に、 旧藩主の久松氏の邸が建てられた。邸は、萬翠荘として現存し、県立美
術館分館となっている。
夏に入り、漱石は、上野義方宅の離れに移った。彼は、そこを「愚陀仏庵」と名付けた。
(「うらなり先生夫は嘸御困りで御座いましょう、 としばらく考えて居たが、此裏町に萩野と云って老人夫婦ぎ
りで暮らして居るものがある。 いつぞや座敷を空けて置いても無駄だから、慥かな人があるなら貸してもいゝ
から周旋してくれと頼んだ事がある。 今でも貸すかどうか分らんが、まあ一所に行って聞いてみませうと、親
切にも連れて行ってくれた。」(坊っちゃん)) 現在の割烹天平(二番町三丁目7番6号)の辺りがその跡地という。
8月27日、結核療養後、松山に帰っていた正岡子規が、漱石の下宿に入り込んで来た。子規が上京する迄の52日
間、二人は起居を共にした。漱石が俳句を始めたのはこの頃とされる。
愚陀仏庵は、1945年7月26日の米軍機空襲により焼失したが、1982年に萬翠荘(前出)の敷地内に復元された。
愚陀仏庵(復元)(松山市一番町三丁目3番7号)―2003-3-21
正岡子規と夏目漱石が同居した下宿が、萬翠荘の敷地内、城山中腹に復元されている。
土曜日、日曜日、休日には、御茶席の接待(有料)がある―最寄駅:伊予鉄道城南線・大街道

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